ベトナム北部・タムダオ山脈の山あいに、雲に包まれた小さな集落がある。フート省イエンラン村(かつてはヴィンフック省ソンロー県ランコン社の一部だった地域)に暮らすダオ族の一支系「ダオ・クアンチェット」の人びとは、いまも伝統衣装を日常生活の中で着続けている。彼らにとって衣装は、単なる服ではなく、祖先から受け継いだ文化の記憶が染み込んだ「民族の証」だ。
藍色の布と赤い糸が描く、山と水の世界
ダオ・クアンチェットの衣装は、深い藍色の布地と、細かな手刺しゅうが特徴だ。女性が身につける伝統衣装は、丸首で右前合わせの藍色の長上着に、同じく藍色の細身のズボンを組み合わせる。襟元や胸元、袖口には、極めて細かい幾何学模様や草花の模様がびっしりと縫い込まれている。
模様には一つ一つ意味がある。三角形は山の峰、波のような曲線は山あいを流れる小川、草花のモチーフは命のつながりや豊かさへの願いを表すとされる。なかでも、鮮やかな赤い糸は、ダオ族の精神文化を象徴する色だ。深い藍の上に点々と散りばめられた赤は、山里の暮らしに息づく「生命力」を示すと言われている。
女性のズボンは裾が細く絞られ、山での農作業や急な斜面の移動に向いた形になっている。この細身のズボンスタイルこそが、「クアンチェット(裾を締めたズボン)」という名前の由来であり、ほかのダオ族との違いを示す目印にもなっている。頭には布を幾重にも巻いた頭巾をかぶり、ときにはその端を首の後ろに垂らして、落ち着いた雰囲気を演出する。首や腕、耳には銀製の装身具を身につける。銀は厄を払い、家族の繁栄を呼び込む「お守り」として大切にされてきた。
男性の衣装にも込められた“火”の力
男性の衣装は女性よりシンプルで、装飾の少ない藍色の上着が基本だ。ただし、そこにも赤い糸で入れられた細いラインがあり、「火」やエネルギーを象徴する印とされる。祭礼や村の重要な儀式の際には、男性は特別な帽子をかぶる。その形や装飾は、共同体の中での役割や地位を表すもので、衣装を通じて「誰がどの役割を担っているか」が一目で分かるようになっている。
娘たちが幼い頃から身につける刺しゅうの技
イエンランのダオ族にとって、伝統衣装の核となっているのは手刺しゅうの技だ。紙の型や定規を使うことはほとんどなく、模様は頭の中に記憶され、手の感覚だけで布の上に再現される。
女の子は7~8歳ごろから針と糸を持ち、まずは簡単な模様から練習を始める。年頃になる頃には、一人で自分用の礼装一式を仕上げられるようになる。自分の手で最初の礼装を完成させることは、大人への一歩を示す通過儀礼でもある。
村には「刺しゅうを知っていれば、民族の魂は生き続ける」という言い回しがある。刺しゅうの継承は、単なる手仕事の練習ではなく、「自分はどんな民族に属し、どんな歴史を受け継いでいるのか」を意識するきっかけにもなっている。
祭礼を彩る“民族の名刺”としての衣装
現代の生活スタイルに合わせ、日常の衣装は少しずつ簡略化されつつある。それでも、通過儀礼や祭りの場では、昔ながらのフルセットの衣装が欠かせない。
男性が大人として認められる「授印の儀式(Cấp sắc)」、結婚式、春先の祭りなど、重要な儀礼の際には、赤の分量が一段と増え、衣装全体が華やかな印象に変わる。女性は、より密度の高い刺しゅうが施された上着をまとい、真紅の帯を締め、頭巾も普段より複雑な巻き方をする。銀の装身具の数も増え、揺れる飾りが祭りのリズムに合わせてきらめく。男性は赤いラインを強調した藍色の上着に、儀式用の帽子をかぶり、共同体を代表する役割を視覚的に示す。
ダオ族にとって、礼装の色には明確な意味がある。赤は火や再生、力強さ。白は始まりと清らかさ。藍や黒は大地とルーツを象徴する。祭礼の衣装は、こうした色の意味を組み合わせることで、「自分たちはどこから来て、どのように生きていくのか」というメッセージをさりげなく語っている。まさに「民族を紹介する名刺」のような存在だ。
村ぐるみで進む、次の世代への継承
近年、イエンランのダオ族の家庭では、村の文化会館などを活用し、若い世代に刺しゅうを教える小さな教室を開く動きが広がっている。刺しゅうに長けた年長の女性たちが、模様の配置の仕方、糸の色の組み合わせ方、藍色の布の上で線を美しく浮かび上がらせる縫い方などを根気強く伝えている。
若者の多くは、学校や仕事の関係で、毎日ダオ族の衣装を着て生活しているわけではない。それでも、模様の名前や色の意味を理解し、どの場面でどの衣装を着るのかを知っている。伝統と現代が混ざり合う生活の中で、文化が「完全に途切れない形」で受け継がれている点は、文化保全の観点からも明るい兆しといえる。
朝のイエンランの集落を歩くと、家の軒先で刺しゅうをする年配の女性たちの姿を見かけることがある。布を通る針の音が、静かな山里に小さく響く。藍色の布の上で、赤い糸が山の稜線や流れゆく水のような線を描き出していく。その一針一針に、村への愛着や、山や森への感謝の気持ち、次の世代への願いが込められている。
イエンランのダオ・クアンチェットの伝統衣装は、単なる「服」ではない。村の歴史、家族の物語、山あいで生きてきた人びとの誇りを縫い込んだ記憶そのものだ。急速に変わる現代社会の中で、これらの衣装は、ダオ族のコミュニティが持つ粘り強さと、文化を守り抜こうとする強い意志を静かに語り続けている。
